これは、最早本人の中ですら打ち壊された記憶―


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サラヴァラックの武神 外伝
      魔王の生誕日


「ぐ…あああ…あぅ…」
ぼろ布のようにされた青年が地面に横たわっている。
その手は後手に拘束され、両脚は鎖と鉄球でがんじがらめ。
そのすぐ先には磔台と、文字通り其処に磔にされた中年の女性。
「…オ…ウ…グ…」
喉を潰された彼女の元に、はいずっていく青年。
「かあ…さ…」
拘束具を引き千切る事は容易に出来た。だが、三日三晩散々に殴られ蹴られ、思うままに痛めつけられた今の彼に、そんな余力も残っては居らず。
ただ磔台の女性の下へ、力なくはいずるだけしか出来なかった。
「かぁ…さん…」
ようやく磔台の真下までやってきた彼。安堵するも束の間、妙な液体を頭から浴びせかけられた。
見上げると、母にもそれは浴びせかけられている。
独特な匂い。
香油だ。
何度も、何度も。
油が耳や鼻や口から入り、咽る。傷口にも染み込み、鋭痛を齎す。
だが、それよりも。
「かぁ、さ…かあさん!止せ、止せぇ!止めろぉ!!」
その意味するところを悟り、彼は大声で叫んだ。
「魔の遣いめが…!未だそのような力があるか!!」
長老が―数日前まで優しい笑顔を見せてくれた筈の―顔を憎悪と怒りに染めて、そんな咆哮を上げた。
それと同時に放たれる罵声、怒声の数々。
「ダークエルフめ!」
「化け物が!」
「死んでしまえ!!」
このような目に遭った原因が何だったのかはよく覚えていない。
ここ数日の記憶が飛んでしまっているからだ。
そして。
「魔の遣いも、それを産み出した魔女もまた、聖なる炎で裁きを与えん―」
まるでそれは儀式のように。
炎は投げ込まれた。
「あ…あぁぁ!!」
一気に火は勢いを増し、彼と母とを一気に呑み込んでいく。
「があ…ああああああああああああああああああああああ!!」
のたうつ。苦痛からではない。
母を救う為に、台へとすがりつく。
台は動かない。だが、それでも諦めるわけにはいかない。
「ギ…オ…ル…グ…」
自分を呼ぶ声。顔を上げると、
母が柔らかく自分を見下ろしていた。
「に…ぇ…な…さ…い…。ぇ…ん…き…ぇ…」
潰れた喉で、それでもなお向けられる笑顔。
「あ…」
刹那。
吹き抜けた風が一気に火勢を増し。
「ギ…ォ…」
ものの数分で母の体を焼き尽くした。

炎が、消える。
悔しさに、悲しさに、体を震わす。
「…かあさんっ!!」
燃え尽きた母の遺体が、自重に負けて崩れながら落ちてくる。
拘束具を引き千切り、受け止めた炭化した胴。
抱き締める間もなく崩れ落ち、唯一。
燃え残ったのは小さな骨の塊。
大事にそれを両手で包み込む。
が、時間は待ってくれなかった。
頭に強い衝撃を受けて、倒れこむ。
「これでもまだ死なぬのか!魔の遣いめが!!」
再び始まる殴打の嵐。だが彼にとって、そんな事は最早どうでもよかった。
「あ…ああ…あぁぁ…」
泣く。
浮かんでくる母の笑顔。
それが永劫に喪われた悲しさが、同時に沸き上がってくるものに押し流されていく。
憎悪。
純化された憎悪の塊が、自分の中で踊り狂いながら巨大化していく。
止める術はない。
憎悪が母の笑顔を一つ一つ塗り潰していく。
笑顔の記憶が消える度、言い様のない悲しさと、とても冷たい『何か』が自分の中に生まれるのを感じる。
最後の母の笑顔の記憶が消えてしまった時。
「ああ――――――――――――ッ!!」
彼の体から噴出したのは、冷気だった。
紛うことなき、魔力の冷気。
それは処刑台のある広場を瞬く間に覆い尽くし。
彼以外のあらゆる存在を氷漬けにした。
「思い出せないんだ…」
ゆっくりと、立ち上がる。
「さっきまで覚えていた筈なのに…」
周囲を凍りついたような目で見回す。
「お前達の所為で―」
数日前までは友人であり隣人であり恩人であり仲間であった彼等。
冷気の範囲の外で、なんとか生き残った者達が我先にと逃走を開始する。
彼等への思い。かすかに残った躊躇いすら、憎悪の塊が無慈悲に塗りつぶす。
「消えてしまった…」
彼は天を見上げた。
母は。
唯一自分を愛してくれた肉親は、ちゃんと煙に乗って天へ昇れただろうか。
どんよりと曇った空。
彼は瞳を閉じ、そして。
「死ンデシマエ」
狂ったように自分を衝き上げる感情の渦に、全てを委ねた。


のんびり。否、のろのろとした所作で、一人の青年が歩いている。
俯いた彼の表情は窺い知れないが、その黒髪と長い耳を見れば、誰だとて近寄る事はしないだろう。
ダークエルフ。
しかも、人間に対して最悪の感情を抱く。
「…思い出せないんだ…」
何事かを呟きながら、歩みは止めない。
「何を忘れてしまったのか…」
憎悪は未だ止まる事を知らず心中を踊り狂っている。
既に全ての人間へ、彼の憎しみの対象は広がってしまっていた。
「あいつらの所為で…」
ふと、視界に大きな街が映った。
「…殺シテヤル!!」


数年後。
何処からか現れた亜人の軍勢が、大陸西の小国を滅ぼして自らの国を称した。
滅ぼされた国の名はユグド。
滅ぼした亜人達の、頂点に立つのはダークエルフの青年だった。
その名はデル・ギオルグ・ダ・ウィーレンクラウス。
後世、彼の擁する亜人の国の名は時の流れに失われ、忘れ去られたが。
憎悪の魔王と呼ばれた彼の名は。
彼を討ち果たした男の名と共に、史書に残された。


思イ出セナインダ。
自分ガ何ヲ忘レテシマッテイルノカ。
憎悪ガ思イ出ス邪魔ヲスルンダ。
思イ出セルダロウカ。
憎イアノ人間達ヲ全テ殺シ尽クシタラ。
…今ハワカラナイ。

 

 


 



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上記テキストは 2004年12月01日滑稽さま に頂きました。
ありがとうございます。
雨傘日傘